女子中学生監禁事件、「なぜ逃げられなかったのか」という「理由」を問うことは暴力である

よくぞ言ってくれた!

女子中学生が保護された途端にテレビのワイドショーやインターネット上の書き込みでは、「なぜ逃げられなかったのか」を執拗に問うものが溢れ始めた。余りにも切なく哀しい。そう思っていると、千田有紀教授が歯に衣を着せずにものの見事に言ってくれた。

『Yahoo! JAPAN ニュース』から、千田教授が書かれた記事一部を紹介したい。

 

 朝霞市で誘拐され、監禁されていた女子中学生が逃げ出し、約2年ぶりに保護されたという。子どもの身の上を心配し、活動されていた親御さんもホッとされただろう。よかった。

 

ところで予想されたことであるが、「なぜ逃げられなかったのか」を検討する報道が続出している。もちろん、なぜこんな監禁事件が行われてしまったのか、それを悔やむ無念さからでもあるだろう。しかし当初監禁されていた千葉市や、その後の引っ越し先の東京中野区のアパートの鍵のかけられ方、そして壁の厚さや部屋の配置を執拗に検討し、「周囲に物音は聞こえたのではないか」「声を出せば届いたのではないか」を問いかける報道があまりに多く、目に余る。

 

(中略)

 

 逃げなかった理由としてあまり指摘されていないように思うが、大きな理由のひとつは、(私の記事を含む)こうした報道だろう。「なぜ逃げられなかったのか」「何があったのか」という視線にさらされ、根掘り葉掘り報道されることを考えれば、想像力があればあるほど、逃げる勇気がでなくなる。監禁から逃れたあともまた、違う被害にさらされるのであるから。事態を理解すればするほど、勇気を必要とするだろう。

 

 そもそも、「なぜ逃げなかったのか」という問いの答えは、「逃げられなかったから」という同語反復以外にない。他の犯罪でこのような問いかけがされるだろうか。「なぜナイフが取りだされて殺される前に、逃げなかったのだろう」「なぜひったくりにあう前に、気が付けなかったのか」。少し考えるだけでも、おかしさに気が付くはずだ。

 

 逃げられるなら、逃げている。逃げられないのは、心理的、物理的、さまざまな理由で、逃げられないからである。こうした報道自体が、不幸にして次の監禁事件が行われた場合、被害者の救出をさらに困難にしないだろうか。次の被害者を出してしまう可能性すらある。助けられなかった無念さはわかる。しかし、「なぜ」を問いかけるのはやめたほうがいい。理由は、「逃げられなかったから」なのだ。

 

記事の全文はコチラ

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20160330-00055993/

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