誰に必要とされているか

私の父は、目抜き通りで書店&文房具店を経営していた時期がある。商売が絶頂期の時、ある人の連帯保証人になったところ、その人の借金をすべて背負い、何もかも失ってしまった。一家心中までしようとしのだが、子ども達の笑顔を見て思いとどまったのだそうだ。私がまだ、ものごころつくかつかないかの頃の話だ。

親戚中から借金をして負債を支払った後は、親戚に返すため、がむしゃらに働いていた両親の姿を子供心に憶えている。なぜ我が家にはおやつが無いのか?と、少しだけ寂しい思いをしたことはあったが、なぜ、我が家の食事にはおかずが無いのか?と疑問に思ったことは不思議と無かった。味噌をつけたおにぎりや、醤油だけの焼き飯(醤油ご飯)や、ケチャップだけの赤いご飯がごちそうで、卵が乗ったら感激だった。

そんな暮らしの毎日ならば、父も母も恨み節の一つや二つ、いや、毎日でも言っても良さそうなものだが、不平不満も恨み節も聞いたことが無かった。むしろ、何だか懐かしい、郷愁を覚えるような思い出話として時おり話してくれた。

そんな父や母の話を教材とすれば、人の保証人になったり、人にお金を貸したりしなければ良いものを、気が付けば繰り返し繰り返し父と同じことをやってしまっている私がいる。その結果、自分の首をこれでもかと絞めてしまっている。お金があって人に貸すのではなく、無いところに借りに来るので、人から借りて、それを貸す。すると、その人は返せない。ついこの前は、一円も返してもらっていないうちに、その人がお亡くなりになってしまった。こんな感じなので、最近は、自分の首だけではなく、家族にまで相当の苦労をさせてしまっている。

これで良いのだろうかと悩みの淵にいると、欽ちゃんの言葉に出会った。

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